八千代鮨

八千代鮨は昭和32年に創業しました 神楽坂本多横丁で頑固に江戸の味を守っています

TEL.03-3260-6389

〒162-0825 東京都新宿区神楽坂3-1

#八千代鮨

新子情報(R4.7.14)

豊洲市場の休市明けで少し高めでしたが、天草産を400g仕入れました。

5枚付で20貫程度になります。
ぜひ、お待ちしておりますm(_ _)m

新子情報(R4.7.11)

本日は入荷が少ないみたいで、少し高めでした。なので少しだけ仕入てきました。

R4.7.11の新子です

天草産200gで63枚、大小あったので、5〜10枚付で11貫になりました。

新子情報(R4.7.8)

今シーズン初めての新子を仕入れました

天草産400gで206枚ありました。1貫8~10枚付けになると思います。
連絡をいただけましたら、お取り置きも出来ますので この機会にぜひどうぞm(__)m

Line公式アカウントを取得しました

いつもご愛顧頂きまして誠にありがとうございます。

今年もまもなく新子の季節が始まりますが、新子の入荷状況や季節のおすすめ情報をお知らせすることを目的として八千代鮨Line公式アカウントを作りました。

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令和2年の新子の季節が始まりました

突然ですが、本日より新子の入荷が始まりました。
舞阪(静岡)産は例年通り高価な初値がつきましたが、天草(熊本)産は初値にしては手の届く範囲の競値だったので仕入れてきました。

500gで146枚あり、一貫5枚付けになります。

例年梅雨の終わり頃は九州地方が豪雨となり、しばらくの間は入荷が不安定になることが予想されます。
新子のサイズは仕入れる毎に大きくなって行きますが、お盆休み頃まで楽しむことが出来ます。
ご予約頂けましたらお取り置きいたしますので、ぜひ今年もお楽しみ下さい。

令和2年6月25日

衛生管理の取り組みについて

緊急事態宣言に伴い、当店では衛生管理の見直しを行い営業の継続をしております。ご理解頂きますようお願いいたします。

1.お客様用アルコールジェルを用意しました

下まで十分に押し込んで下さい。少し多めに出ますが、ワンプッシュが適量です。
ジェル状ですが、すり込むとサラサラになります。ご来店時にご協力をお願いいたします。

2.カウンタ・椅子等の消毒を徹底します

次亜塩素酸水です。食品添加物として認定されています。
カウンターや椅子、及びドアの取っ手等を定期的に消毒しています。

3.調理場内をアルコール消毒しています

まな板や包丁の消毒に使用しています。食品添加物の認定がされていますので、食品に掛かってても安心です。
エチルアルコールが主成分なので無味無臭です。食品の味を損ないません。

4.パーティション及びカーテンを設置しました

アクリルボードとビニールカーテンを設置しました。

5.東京都の要請に従い営業時間を変更しました

これ以外にも隣のお客様と1席以上の間を取るようにしています。ご理解をお願いいたします。
その他気になる点がありましたら、お気軽にお申し付け下さい。

本多横丁 八千代鮨 店主 斎藤幸伸

営業時間変更のお知らせ(R2.4.11)

都知事の要請を受けて、令和2年4月11日(土)より下記の通り営業時間を変更いたします。

営業時間:12:00~20:00(但し、酒類の提供は19:00に終了します)
営 業 日 :月~土(祝祭日を除きます)

ランチ営業は14時迄ですが、お休みせず20時まで通常営業し、ランチ時間帯も酒類の提供いたします。

諸般の事情により誠に勝手ではございますが、ご理解と引き続きのご愛顧を賜りますようお願いいたします。

国や東京都等の要請により営業時間を変更いたします。
最新情報は下記をクリックして下さい。
http://yachiyo-sushi.com/%e5%96%b6%e6%a5%ad%e6%97%a5%e5%a4%89%e6%9b%b4/

八千代鮨 店主 斎藤幸伸
令和2年4月11日

営業時間変更のお知らせ(R2.4.7)

新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言発令に伴い、誠に勝手ながら営業時間変更を行います。

月~土 11:30~13:00/17:00~20:00(ラストオーダー)
日曜・祝日:休業

なお、お持ち帰りの販売は引き続き行っておりますので、ぜひご利用下さい。

「お持ち帰り」やってます

お客様にはお不便をおかけいたしますが、なにとぞご理解いただけますよう、よろしくお願いいたします。
皆様におかれましても、呉々もご自愛下さい。

国や東京都等の要請により営業時間を変更いたします。
最新情報は下記をクリックして下さい。

営業日変更のお知らせ(R2.5.26)

八千代鮨60年の歩み(八千代鮨の創業)

親父は目黒のだるま寿司で4年間の修行を終えて、昭和32年2月に調理師会に所属しました。
その中で音羽の八千代鮨に派遣されました。そうのような状況で2か月ぐらい働いていたある日に、大将に「やる気があるなら店を譲る」と言われたそうです。
居抜きで店を買い取るには貯金もありませんでした。しかし、田舎の実家が養蚕をやっていて、ちょうど繭を納めて収入があった時期でした。

余談ですが、養蚕で繭を納めると農家には臨時収入が入ります。10人兄弟姉妹の子供たちには下駄やズック・帯などを買ってもらったそうです。
しかしこの時のお金は親父が全部使ってしまったため、他の子供たちのボーナスはナシとなってしまい、事ある毎に妹から恨み節を聞かされていました。


実家からこのお金を借りて音羽の八千代鮨の暖簾を買い取る事にしました。かくして昭和32年7月に晴れて一国一城の主となり「八千代鮨」の歴史が始まりました。親父が22歳の事です。当時は掃除やお茶出しは姉(写真右)に手伝ってもらっていました。
また、まだこの時代はお米が配給制だったので、鮨店を経営するには、お客様が持参した米1合と店の鮨ダネを加工してお客様に提供する「委託加工制度」の登録が必要でした。上の写真の看板にその旨が表示されているのが分かります。
もちろん お客様が来てからシャリを炊いていては仕事にならないので、ヤミ米などで事前にシャリは炊いていたそうです。
当時の鮨は1人前120~150円ぐらいで、1日の売り上げは2~3千円程度だったそうです。上の写真のお品書きで当時の物価が分かります。

朝6時に起きて自転車で30~40分かけて河岸に行きました。雨の日は合羽着て自転車で向いました。神田川が氾濫して大変なこともありました。
戻ってくると仕込みを始めました。昼すぎのお客さんのいない隙間に仮眠をしました。夜の1時ぐらいに店を閉めて1時間ぐらいかけて片づけをする。
まだ遊びたい盛りだったので、店が終わった後に池袋まで遊びに行って、寝ないで河岸に行くこともしばしばだったと言っていました。
大量に飲んで朝に青い顔をしていても昼頃になるとケロッとして、その夜はまた飲みに行きました。
でも、一度も寝込むような病気をしたことはありません。どんなに遊んでも店を休んだことはありません。丈夫な体が宝物でした。

定休日というのは特に設けませんでしたが、人を使うようになってから、定休日を月2回にしました。でも、冷蔵庫の氷を交換する必要があり、映画を見に行く時間ぐらいしか休めませんでした。修行中よりも仕事は増えたけども、やり甲斐はありました。こんな生活でしたが、自分の店が持てたので辛さは感じなかったそうです。

店の前を通るクルマが石をはじいて、店のガラスにヒビが入ったことがありました。そのガラスに張り紙をして営業していたら、お客さんに「そういうことをしていたら、その程度のお客さんしか来なくなるぞ、ケチるな」と言われたことがあります。すぐにガラスを張り替えました。
お客さんに「ウチから店を見てはダメだ。外から店を見ろ」と言われたことがあります。それを父は親から言われたように素直に聞きました。
横柄な客がいて「マグロ握ってくれ」と言われ「マグロはない!」「ここにあるじゃないか」「お前に食べさせるマグロはない!」と大喧嘩になったこともありました。
その客は二度と来ないと思っていたら、翌日にまた来て「昨日は悪かった」と謝ったんです。そのうち、そのお客さんとは無二の親友になりました。
お客さんには恵まれたと思います。お客さんと話をしながら握るのは楽しいものです。

 
親父の新し物好きの血が騒ぎ、新型バイクを買いました。早速、河岸に乗っていくと人だかりができたそうです。

「ひとりじゃ体壊すから、身を固めろ」ということを言われていました。何回かお見合いもしました。
契約も切れたし、店も狭かったので、榎町に移りました。音羽では昭和35年までの3年間営業しました。

八千代鮨60年の歩み(修業時代 その2)

親父は昭和9年11月17日に群馬県甘楽町の山深い小さな村で生まれました。10人兄弟で、男3人女7人の3男として生まれました。
名前の由来は誕生当日、地元の名士であった祖父が富岡(片倉)製糸工場に行幸されるのを出迎えたことからです。
この日のことは昭和天皇誤導事件という大きな事件になっています。
「行幸」では恐れ多いので、逆さにして「幸行(ゆきつら)」と名付けられました。


実家は養蚕とコンニャクを営む農家でした。幼い頃は材木を切って出すのを手伝うアルバイトもしました。重い材木を担ぎました。坑道に発破をかけて、蝋石を取り出すこともやりました。
軍隊の訓練はやりましたが、入隊はしませんでした。終戦のときは小学校5年でした。


18歳の時に、従兄弟の先輩が東京の目黒にいて、「幸ちゃん、来ない」と誘われました。それまでは東京に行ったことは無く、鮨なんて考えたこともありませんでした。
昭和28年2月18日、私は行李1つにバック1つで上京しました。父と二人で家から5分歩いてバスで富岡まで行って、上新電鉄で高崎まで1時間、高崎から上野まで3時間、山手線で目黒まで来ました。

目黒駅前の「だるま寿司」さんにお世話になることになり、店に住み込みでの修行が始まりました。「布団を持ってこい」と言われていたので、布団は送っておきました。間口が2軒・奥行きが3軒の屋根裏部屋で使用人の男女が雑魚寝でした。当時はそれが当たり前で気にはなりませんでしたが、心細かったことは事実です。自分の物は自分で寝る前に洗濯しました。


親方はあまり喋らないほうで、海軍の調理場で働いて経験もあり、とても厳しい方でした。
親方が河岸から帰ってくる10時頃までに店を隅から隅まで綺麗にしておかないと機嫌が悪くなったのです。
掃除は2時間くらいかけました。田舎にいる頃は掃除などしたことありませんでした。
親方が怒ると皿や包丁、マグロが飛んできかたこともありました。親方は短気だけど商才はありました。

女将さんは「寿司屋の女将さんはこうあるべきだ」という理想でした。チャキチャキしていました。
女将さんは「辛抱しなさい」と励ましてくれた。それは若い衆が次々と辞めていくのを見ていたからです。
私の名前「ゆきつら」が言いにくいので、「ゆきお」と呼ばれていました。


11時にはお客さんが来ました。2時くらいにひと段落。休憩時間はありませんでした。遅いときは夜中の2時くらいまでお客さんが来ました。
進駐軍が駐留している時代でしたが、朝鮮動乱もあり夜の街は賑わっていました。
私は昼夜2食の賄いも作りました。寿司の修行は手取り足取り教わるのではなく、見て覚えるという感じでした。
カウンターに立つのには1年2年かかりました。

私は将来は独立すると決めていましたが、親方は「暖簾分け」をさせる気はありませんでした。そのため昭和32年に修行を上がり調理師会に所属しました。
上野の店に1日だけ勤めたこともありましたが、すぐに文京区音羽の八千代鮨に派遣されました。大将はタクシーの運転手もやっていたので、店は板前に任せていたのです。
2ヶ月くらい経ったある日、八千代鮨の大将が「やる気があるんだったら、譲るよ」と言ってくれました。
八千代鮨はカウンターに5人、奥に3~4人座れる小上がりがありました。初めて店を持つには、もっと大きくても小さくてもダメで、手頃な大きさの店でした。

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