八千代鮨

八千代鮨は昭和32年に創業しました 神楽坂本多横丁で頑固に江戸の味を守っています

TEL.03-3260-6389

〒162-0825 東京都新宿区神楽坂3-1

コンピュータとの出会い

コンピュータとの出会い

自分は昔から秋葉原のガード下の雑然とした店の佇まいが大好きでした。何に使うか分からない電気部品を売る小さな店が所狭しと並ぶ光景も、またそこの匂いも大好きで、石丸電気でレコードを買うたびに用も無くそこを通って行き帰りしていました。当時、中学生でカーペンターズのファンでした。
ある時、ダイオードラジオのキットを目にして、中学生でも買える金額だったので半田ゴテと一緒に買って帰りました。組み立てると大好きな匂いは半田のヤニが焦げた匂いだったことが分かりました。
残念ながらこのラジオは感度もチューニングもいい加減だったので、まともに使えるものではありませんでした。しかし電池を使わないのにガサガサとした音が聴こえ、遥か宇宙からの電波を受信しているような気持ちになり、ワクワクしました。それからトランジスタラジオのキットを買ったりして、抵抗器のカラーコードも読めるようになりました。
また、時同じくしてスペースインベーダーが大ヒットして、うちの若い衆と毎日のように喫茶店に通い詰めました。

高校生になったある日、なぜだか経緯はわからないのですが、店のお客様の新婚の里帰りに広島まで一緒に付いて行く事になりました。新婚夫婦と全く他人の高校生が新幹線に乗って、全く知らないお宅に2〜3泊すると言う何とも奇妙な体験ですが、察しの悪い高校生でも場違いなのは理解していました。
そこでその高校生はキオスクに飛び込み、一番難しそうな本を2〜3冊買いました。時間を潰す対策にと無い知恵を絞った結果です。そのうちの1冊が人生を変えるきっかけになりました。マイクロコンピュータについて書かれた本で、TK−80と言うマイコンキットの宣伝のような内容でした。
すぐに「マイコンが欲しい!」とのめり込みましたが、高校生には大変高価なものでした。89,500円!今でも覚えています。しかも組み立てキットで自分で半田付けしなくてはならないハイリスクなものでした。おまけに電源やケースは別売りで10万円以上の出費を覚悟しなくてはならず、バイト禁止の高校生には月々の小遣いとお年玉をコツコツと貯めるしか方法がありませんでした。

1年ぐらい軍資金を蓄えていた時、嬉しいニュースが飛び込んできました。TK−80Eと言う廉価版の発売が決まったのです。発売元は新日本電気、今のNECだったのですが、予想以上の反響があったため、セラミックパッケージだったCPUやメモリーをプラパッケージに変更して67,000円に価格を抑えたキットを発売したのです。これでも清水の舞台ですが、飛び降りても死なないぐらいの価格になったので直ぐに飛び付きました。
因みに、TKはTraining kitの略で、80はi8080と言うCPUを使っていた事の略、EはEconomy版と言うことでした。つまり8bitCPUを使ったコンピュータの練習機という意味でした。当時のNECは電子部品を販売する方法を模索していて、簡単なコンピュータキットを広く一般販売してユーザーの反応を知るためにこのキットを売ることにしたと後に聞きました。
このコンピュータは奇跡的に何のトラブルも無く無事完成させることが出来ました。このマシンは電卓のような8桁のLEDに文字や数字を表示するか、ちょっと改造をしてスピーカーを繋ぎ、ビープ音と呼ばれる単純な音を鳴らす程度の事しか出来ませんでした。しかし、見聞きすること全てが今まで経験したことが無く貪欲に情報を集めました。

雑誌などのサンプルプログラムを徹夜で16進キーボードで打ち込んだりしました。楽譜を16進数に変換して数日かけて打ち込み、山口百恵のコスモスの自動演奏を完成させました。得意になって母親に聞かせた感想が「通りゃんせ?」でした。確かに交差点の目の不自由な方のために鳴らしている音によく似たチープな音でした。しかしその後しばらくの間、親とは口をききませんでした!
当時、秋葉原のBit-inと言う日電のコンピュータショップが一番の情報源でした。このショップが入る秋葉原駅前にあるビルには時間を見つけては通いました。このショップの隣にはAPPLE-Ⅱと言うコンピュータのデモ機を展示していました。このマシンは、テレビ画面を繋いでゲームセンターにあるようなゲームを実演していました。当時としては画期的なマシンでしたが、40万円ぐらいしたと記憶しています。これは今のMacの先祖に当たるマシンです。因みにTK-80はその後PC-9801として日本で爆発的に売れたマシンの先祖になります。

自分は理系の大学への進学を希望していましたが、親は家業を継がせるために経営学を学ばせたい思いでした。そのため文系大学へ進学することになりましたが、ささやかな抵抗で電算機実習のある学部を選びました。しかしこの電算機実習は自分が思い描いていたものとは違いました。当然ですが、文系大学なので自分が興味のあるハードの知識よりも、ソフトの初歩の初歩を習うだけだったのです。その間、金欠学生は友人から色々なマシンを譲り受けましたが、あまり進展は無く部活にのめり込みました。そのため卒業はしたものの、親が希望した経営学の知識は残念ながら記憶に残っていません。時効だと思うので白状すると、机に覚えて貰ったので試験では最低限の答案を提出できました。

しかし転機が訪れたのは、部活の先輩がとあるソフトハウスに就職していて、自分がコンピュータに興味があることを知っていたので引っ張ってくれたことでした。就活せずに家業を継ぐつもりでいましたが、親に直訴してこの会社に就職しました。
しかし、またしても自分の思い描いていたものとは違っていました。パソコンと大型汎用コンピュータは50ccのバイクと大型トレーラの違いのようなものでした。パソコンは一人で何でも作りますが、会社で行うソフト開発は多くの期間と大勢の人で作り、一度に大量のデータを処理するため少しのエラーが命取りになります。スペースインベーダのようなものを開発すると思い就職しましたが、全く違う会社であることは直ぐに理解しました。しかしこちらは嬉しい誤算で、当時の最先端の技術を使った大型コンピュータを直に使えました。

パソコンの世界でも日進月歩で進化していきました。自分で新品パソコンを初めて購入したのはエプソンのPC-286と言うマシンで、当時の大ヒット機NEC PC-9801の互換機でした。80286と言う16bitのCPUを搭載していましたが、Windows3.1を動作させるには32bitのCPUが必要なため、CPUをi486に載せ替えてメモリも2Mバイト増設しました。
この頃のパソコンが一番楽しかったと思います。手をかけると目に見えて早くなり、自分で作ると既製品の半額程度で作れました。当時は飽くまでも趣味の道具で、動かなくなっても誰も困りませんでした。しかし今は生活必需品となり動かなくなると家族中に迷惑が掛かり、仕事にも支障を来します。自動車に似ています。昔は慣らし運転を上手にしたり、手を掛けると目に見えて早くなりました。今では慣らしの必要も無く、コンピュータ制御で素人は触れなくなってしまいました。こちらも趣味の道具では無くなってしまったように思います。

ダラダラと昔の記憶を書き連ねましたが、コロナ騒ぎで暇な時間が多くキラキラとした昔の記憶が蘇り、皆様の暇つぶしになればと思い書き残しました。長文・乱文・ミスタイプ等、失礼いたしました。

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