八千代鮨

八千代鮨は昭和32年に創業しました 神楽坂本多横丁で頑固に江戸の味を守っています

TEL.03-3260-6389

〒162-0825 東京都新宿区神楽坂3-1

#八千代鮨の歴史

八千代鮨60年の歩み(八千代鮨の創業)

親父は目黒のだるま寿司で4年間の修行を終えて、昭和32年2月に調理師会に所属しました。
その中で音羽の八千代鮨に派遣されました。そうのような状況で2か月ぐらい働いていたある日に、大将に「やる気があるなら店を譲る」と言われたそうです。
居抜きで店を買い取るには貯金もありませんでした。しかし、田舎の実家が養蚕をやっていて、ちょうど繭を納めて収入があった時期でした。

余談ですが、養蚕で繭を納めると農家には臨時収入が入ります。10人兄弟姉妹の子供たちには下駄やズック・帯などを買ってもらったそうです。
しかしこの時のお金は親父が全部使ってしまったため、他の子供たちのボーナスはナシとなってしまい、事ある毎に妹から恨み節を聞かされていました。


実家からこのお金を借りて音羽の八千代鮨の暖簾を買い取る事にしました。かくして昭和32年7月に晴れて一国一城の主となり「八千代鮨」の歴史が始まりました。親父が22歳の事です。当時は掃除やお茶出しは姉(写真右)に手伝ってもらっていました。
また、まだこの時代はお米が配給制だったので、鮨店を経営するには、お客様が持参した米1合と店の鮨ダネを加工してお客様に提供する「委託加工制度」の登録が必要でした。上の写真の看板にその旨が表示されているのが分かります。
もちろん お客様が来てからシャリを炊いていては仕事にならないので、ヤミ米などで事前にシャリは炊いていたそうです。
当時の鮨は1人前120~150円ぐらいで、1日の売り上げは2~3千円程度だったそうです。上の写真のお品書きで当時の物価が分かります。

朝6時に起きて自転車で30~40分かけて河岸に行きました。雨の日は合羽着て自転車で向いました。神田川が氾濫して大変なこともありました。
戻ってくると仕込みを始めました。昼すぎのお客さんのいない隙間に仮眠をしました。夜の1時ぐらいに店を閉めて1時間ぐらいかけて片づけをする。
まだ遊びたい盛りだったので、店が終わった後に池袋まで遊びに行って、寝ないで河岸に行くこともしばしばだったと言っていました。
大量に飲んで朝に青い顔をしていても昼頃になるとケロッとして、その夜はまた飲みに行きました。
でも、一度も寝込むような病気をしたことはありません。どんなに遊んでも店を休んだことはありません。丈夫な体が宝物でした。

定休日というのは特に設けませんでしたが、人を使うようになってから、定休日を月2回にしました。でも、冷蔵庫の氷を交換する必要があり、映画を見に行く時間ぐらいしか休めませんでした。修行中よりも仕事は増えたけども、やり甲斐はありました。こんな生活でしたが、自分の店が持てたので辛さは感じなかったそうです。

店の前を通るクルマが石をはじいて、店のガラスにヒビが入ったことがありました。そのガラスに張り紙をして営業していたら、お客さんに「そういうことをしていたら、その程度のお客さんしか来なくなるぞ、ケチるな」と言われたことがあります。すぐにガラスを張り替えました。
お客さんに「ウチから店を見てはダメだ。外から店を見ろ」と言われたことがあります。それを父は親から言われたように素直に聞きました。
横柄な客がいて「マグロ握ってくれ」と言われ「マグロはない!」「ここにあるじゃないか」「お前に食べさせるマグロはない!」と大喧嘩になったこともありました。
その客は二度と来ないと思っていたら、翌日にまた来て「昨日は悪かった」と謝ったんです。そのうち、そのお客さんとは無二の親友になりました。
お客さんには恵まれたと思います。お客さんと話をしながら握るのは楽しいものです。

 
親父の新し物好きの血が騒ぎ、新型バイクを買いました。早速、河岸に乗っていくと人だかりができたそうです。

「ひとりじゃ体壊すから、身を固めろ」ということを言われていました。何回かお見合いもしました。
契約も切れたし、店も狭かったので、榎町に移りました。音羽では昭和35年までの3年間営業しました。

八千代鮨60年の歩み(修業時代 その2)

親父は昭和9年11月17日に群馬県甘楽町の山深い小さな村で生まれました。10人兄弟で、男3人女7人の3男として生まれました。
名前の由来は誕生当日、地元の名士であった祖父が富岡(片倉)製糸工場に行幸されるのを出迎えたことからです。
この日のことは昭和天皇誤導事件という大きな事件になっています。
「行幸」では恐れ多いので、逆さにして「幸行(ゆきつら)」と名付けられました。


実家は養蚕とコンニャクを営む農家でした。幼い頃は材木を切って出すのを手伝うアルバイトもしました。重い材木を担ぎました。坑道に発破をかけて、蝋石を取り出すこともやりました。
軍隊の訓練はやりましたが、入隊はしませんでした。終戦のときは小学校5年でした。


18歳の時に、従兄弟の先輩が東京の目黒にいて、「幸ちゃん、来ない」と誘われました。それまでは東京に行ったことは無く、鮨なんて考えたこともありませんでした。
昭和28年2月18日、私は行李1つにバック1つで上京しました。父と二人で家から5分歩いてバスで富岡まで行って、上新電鉄で高崎まで1時間、高崎から上野まで3時間、山手線で目黒まで来ました。

目黒駅前の「だるま寿司」さんにお世話になることになり、店に住み込みでの修行が始まりました。「布団を持ってこい」と言われていたので、布団は送っておきました。間口が2軒・奥行きが3軒の屋根裏部屋で使用人の男女が雑魚寝でした。当時はそれが当たり前で気にはなりませんでしたが、心細かったことは事実です。自分の物は自分で寝る前に洗濯しました。


親方はあまり喋らないほうで、海軍の調理場で働いて経験もあり、とても厳しい方でした。
親方が河岸から帰ってくる10時頃までに店を隅から隅まで綺麗にしておかないと機嫌が悪くなったのです。
掃除は2時間くらいかけました。田舎にいる頃は掃除などしたことありませんでした。
親方が怒ると皿や包丁、マグロが飛んできかたこともありました。親方は短気だけど商才はありました。

女将さんは「寿司屋の女将さんはこうあるべきだ」という理想でした。チャキチャキしていました。
女将さんは「辛抱しなさい」と励ましてくれた。それは若い衆が次々と辞めていくのを見ていたからです。
私の名前「ゆきつら」が言いにくいので、「ゆきお」と呼ばれていました。


11時にはお客さんが来ました。2時くらいにひと段落。休憩時間はありませんでした。遅いときは夜中の2時くらいまでお客さんが来ました。
進駐軍が駐留している時代でしたが、朝鮮動乱もあり夜の街は賑わっていました。
私は昼夜2食の賄いも作りました。寿司の修行は手取り足取り教わるのではなく、見て覚えるという感じでした。
カウンターに立つのには1年2年かかりました。

私は将来は独立すると決めていましたが、親方は「暖簾分け」をさせる気はありませんでした。そのため昭和32年に修行を上がり調理師会に所属しました。
上野の店に1日だけ勤めたこともありましたが、すぐに文京区音羽の八千代鮨に派遣されました。大将はタクシーの運転手もやっていたので、店は板前に任せていたのです。
2ヶ月くらい経ったある日、八千代鮨の大将が「やる気があるんだったら、譲るよ」と言ってくれました。
八千代鮨はカウンターに5人、奥に3~4人座れる小上がりがありました。初めて店を持つには、もっと大きくても小さくてもダメで、手頃な大きさの店でした。

八千代鮨60年の歩み(修業時代 その1)

喪中につき年頭のご挨拶を失礼させて頂きます

かねてより病気療養中の八千代鮨初代 齋藤 幸行 が令和元年10月28日に84歳にて永眠いたしました
ここに平素のご芳情に厚く御礼申し上げますとともに明年も変わらぬご厚誼のほど謹んでお願い申し上げます

なお 皆様のお年始の書き込みは毎年楽しみにしています 例年どおり「いいね!」を付けさせて頂きますことをお許しください
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八千代鮨の初代 齋藤幸行(ゆきつら)は群馬県甘楽郡秋畑の農家の10人兄弟姉妹の6番目として昭和9年11月に生まれました。
当時 長男以外は18歳になると家を出る決まりがあり、昭和28年2月に上京しました。
当日は東京も大雪で、クルブシまで浸かるほど積もっていたそうです。当初は先に上京していた親類を頼りに東京に出てきましたが、縁あって目黒の「だるま鮨」さんにお世話になることになったそうです。

父は新しいものが好きで、当時としては珍しくカメラを持っていました。その為たくさんの写真が残っています。その写真をご覧いただきながら、八千代鮨60年の歩みを振り返っていきます。

目黒のだるま鮨さんで修行中の写真です。

当時のエピソードとしてオヤジが良く言っていたのが、少し握れるようになったときの事です。
常連のお客様が「握ってくれ!」とオヤジに言ました。
オヤジは親方の許可をもらってツケ台に立ち「何にしましょうか?」と伺いました。
するとお客様は「アンチャンの得意なものを頼む!」と注文されました。
少年だったオヤジは一生懸命得意なものをお出ししました。
するとその常連さんは「来た早々に、アンチャンが俺に帰れと言ってるぞ!」と笑いながら親方に向かって言ったそうです。

当時のオヤジが一番得意だったのが海苔巻きだったのです。そこで頑張って精一杯の「かんぴょう巻」を出したそうです。
昔は鮨屋でかんぴょうを注文するのは「ごちそうさま!」を意味しました。来店された常連さんにいきなり「かんぴょう巻」を出した落語のような親父の失敗話の一つでした。


こちらの写真は昭和28年当時の目蒲線目黒駅の駅前です。

当時は街中を進駐軍のトラックが走り回っていたそうです。雅叙園観光ホテルにも進駐軍が宿泊していて、米軍のお客様もよく来たそうです。
「進駐軍にはワサビを入れるな!」と親方から言われていたそうです。敵国に来ている兵士が、味わった事が無いワサビのツンとした刺激を毒を盛られたと勘違いするのだそうです。

少し鮨屋に慣れてきた頃のオヤジの自慢話です。目黒駅前に「ドレメ」と言う服飾学校があります。そこに通うお嬢様を10人ぐらいカウンターに座らせて、それぞれお好みの鮨を注文してもらい一人で握って出したそうです。それを一人ひとりの金額を覚えていて言えたそうです。どこまで本当かはわかりませんが・・・

目黒の「だるま鮨」さんには昭和32年までお世話になりました。

次に続く(予定です)

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