八千代鮨

八千代鮨は昭和32年に創業しました 神楽坂本多横丁で頑固に江戸の味を守っています

TEL.03-3260-6389

〒162-0825 東京都新宿区神楽坂3-1

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令和2年の新子の季節が始まりました

突然ですが、本日より新子の入荷が始まりました。
舞阪(静岡)産は例年通り高価な初値がつきましたが、天草(熊本)産は初値にしては手の届く範囲の競値だったので仕入れてきました。

500gで146枚あり、一貫5枚付けになります。

例年梅雨の終わり頃は九州地方が豪雨となり、しばらくの間は入荷が不安定になることが予想されます。
新子のサイズは仕入れる毎に大きくなって行きますが、お盆休み頃まで楽しむことが出来ます。
ご予約頂けましたらお取り置きいたしますので、ぜひ今年もお楽しみ下さい。

令和2年6月25日

コンピュータとの出会い

自分は昔から秋葉原のガード下の雑然とした店の佇まいが大好きでした。何に使うか分からない電気部品を売る小さな店が所狭しと並ぶ光景も、またそこの匂いも大好きで、石丸電気でレコードを買うたびに用も無くそこを通って行き帰りしていました。当時、中学生でカーペンターズのファンでした。
ある時、ダイオードラジオのキットを目にして、中学生でも買える金額だったので半田ゴテと一緒に買って帰りました。組み立てると大好きな匂いは半田のヤニが焦げた匂いだったことが分かりました。
残念ながらこのラジオは感度もチューニングもいい加減だったので、まともに使えるものではありませんでした。しかし電池を使わないのにガサガサとした音が聴こえ、遥か宇宙からの電波を受信しているような気持ちになり、ワクワクしました。それからトランジスタラジオのキットを買ったりして、抵抗器のカラーコードも読めるようになりました。
また、時同じくしてスペースインベーダーが大ヒットして、うちの若い衆と毎日のように喫茶店に通い詰めました。

高校生になったある日、なぜだか経緯はわからないのですが、店のお客様の新婚の里帰りに広島まで一緒に付いて行く事になりました。新婚夫婦と全く他人の高校生が新幹線に乗って、全く知らないお宅に2〜3泊すると言う何とも奇妙な体験ですが、察しの悪い高校生でも場違いなのは理解していました。
そこでその高校生はキオスクに飛び込み、一番難しそうな本を2〜3冊買いました。時間を潰す対策にと無い知恵を絞った結果です。そのうちの1冊が人生を変えるきっかけになりました。マイクロコンピュータについて書かれた本で、TK−80と言うマイコンキットの宣伝のような内容でした。
すぐに「マイコンが欲しい!」とのめり込みましたが、高校生には大変高価なものでした。89,500円!今でも覚えています。しかも組み立てキットで自分で半田付けしなくてはならないハイリスクなものでした。おまけに電源やケースは別売りで10万円以上の出費を覚悟しなくてはならず、バイト禁止の高校生には月々の小遣いとお年玉をコツコツと貯めるしか方法がありませんでした。

1年ぐらい軍資金を蓄えていた時、嬉しいニュースが飛び込んできました。TK−80Eと言う廉価版の発売が決まったのです。発売元は新日本電気、今のNECだったのですが、予想以上の反響があったため、セラミックパッケージだったCPUやメモリーをプラパッケージに変更して67,000円に価格を抑えたキットを発売したのです。これでも清水の舞台ですが、飛び降りても死なないぐらいの価格になったので直ぐに飛び付きました。
因みに、TKはTraining kitの略で、80はi8080と言うCPUを使っていた事の略、EはEconomy版と言うことでした。つまり8bitCPUを使ったコンピュータの練習機という意味でした。当時のNECは電子部品を販売する方法を模索していて、簡単なコンピュータキットを広く一般販売してユーザーの反応を知るためにこのキットを売ることにしたと後に聞きました。
このコンピュータは奇跡的に何のトラブルも無く無事完成させることが出来ました。このマシンは電卓のような8桁のLEDに文字や数字を表示するか、ちょっと改造をしてスピーカーを繋ぎ、ビープ音と呼ばれる単純な音を鳴らす程度の事しか出来ませんでした。しかし、見聞きすること全てが今まで経験したことが無く貪欲に情報を集めました。

雑誌などのサンプルプログラムを徹夜で16進キーボードで打ち込んだりしました。楽譜を16進数に変換して数日かけて打ち込み、山口百恵のコスモスの自動演奏を完成させました。得意になって母親に聞かせた感想が「通りゃんせ?」でした。確かに交差点の目の不自由な方のために鳴らしている音によく似たチープな音でした。しかしその後しばらくの間、親とは口をききませんでした!
当時、秋葉原のBit-inと言う日電のコンピュータショップが一番の情報源でした。このショップが入る秋葉原駅前にあるビルには時間を見つけては通いました。このショップの隣にはAPPLE-Ⅱと言うコンピュータのデモ機を展示していました。このマシンは、テレビ画面を繋いでゲームセンターにあるようなゲームを実演していました。当時としては画期的なマシンでしたが、40万円ぐらいしたと記憶しています。これは今のMacの先祖に当たるマシンです。因みにTK-80はその後PC-9801として日本で爆発的に売れたマシンの先祖になります。

自分は理系の大学への進学を希望していましたが、親は家業を継がせるために経営学を学ばせたい思いでした。そのため文系大学へ進学することになりましたが、ささやかな抵抗で電算機実習のある学部を選びました。しかしこの電算機実習は自分が思い描いていたものとは違いました。当然ですが、文系大学なので自分が興味のあるハードの知識よりも、ソフトの初歩の初歩を習うだけだったのです。その間、金欠学生は友人から色々なマシンを譲り受けましたが、あまり進展は無く部活にのめり込みました。そのため卒業はしたものの、親が希望した経営学の知識は残念ながら記憶に残っていません。時効だと思うので白状すると、机に覚えて貰ったので試験では最低限の答案を提出できました。

しかし転機が訪れたのは、部活の先輩がとあるソフトハウスに就職していて、自分がコンピュータに興味があることを知っていたので引っ張ってくれたことでした。就活せずに家業を継ぐつもりでいましたが、親に直訴してこの会社に就職しました。
しかし、またしても自分の思い描いていたものとは違っていました。パソコンと大型汎用コンピュータは50ccのバイクと大型トレーラの違いのようなものでした。パソコンは一人で何でも作りますが、会社で行うソフト開発は多くの期間と大勢の人で作り、一度に大量のデータを処理するため少しのエラーが命取りになります。スペースインベーダのようなものを開発すると思い就職しましたが、全く違う会社であることは直ぐに理解しました。しかしこちらは嬉しい誤算で、当時の最先端の技術を使った大型コンピュータを直に使えました。

パソコンの世界でも日進月歩で進化していきました。自分で新品パソコンを初めて購入したのはエプソンのPC-286と言うマシンで、当時の大ヒット機NEC PC-9801の互換機でした。80286と言う16bitのCPUを搭載していましたが、Windows3.1を動作させるには32bitのCPUが必要なため、CPUをi486に載せ替えてメモリも2Mバイト増設しました。
この頃のパソコンが一番楽しかったと思います。手をかけると目に見えて早くなり、自分で作ると既製品の半額程度で作れました。当時は飽くまでも趣味の道具で、動かなくなっても誰も困りませんでした。しかし今は生活必需品となり動かなくなると家族中に迷惑が掛かり、仕事にも支障を来します。自動車に似ています。昔は慣らし運転を上手にしたり、手を掛けると目に見えて早くなりました。今では慣らしの必要も無く、コンピュータ制御で素人は触れなくなってしまいました。こちらも趣味の道具では無くなってしまったように思います。

ダラダラと昔の記憶を書き連ねましたが、コロナ騒ぎで暇な時間が多くキラキラとした昔の記憶が蘇り、皆様の暇つぶしになればと思い書き残しました。長文・乱文・ミスタイプ等、失礼いたしました。

癒やし

今日数年ぶりに街の床屋さんに行きました。そこで感じたことを書き残します。少し長文となります。ご容赦下さい。この時期なのでコロナネタもありますが、少し違うことを感じました。
このご時世で床屋に行くのも少しためらいがありました。「あと1~2週間は我慢できるかな?」という気もしました。しかし数週間で状況が好転するとも思えないので、今行く方がベストじゃ無いかと思ったのです。

ここ数年、散髪は格安店に行ってました。安い・早いに魅力を感じたからと言うのもありますが、他にもいくつか理由がありました。
朝風呂に入るので、床屋で洗髪するのが無駄に感じていました。
また、顔剃りも幼稚園の頃、切れたことがあり軽いトラウマになっていました。
しかし直接の理由は、予約して数時間待って散髪に1時間位かかるので時間が取れないことがあり、試しに格安店に入ったのが切っ掛けでした。自分は床屋を変えるのに抵抗があるのですが、洗髪や顔剃りが無くても意外と違和感が無かったので、格安店に通うようになった次第です。

今日行った床屋さんは、以前に通っていたお店です。まだ営業しているか不安でしたが、予約の電話をすると聞き覚えのある声がしました。何時から空いているかを確認すると「この時期なのでいつでもどうぞ!」とも事でした。このお店も感染対策で同一時間帯は1人限定で営業しているとのことでしたが、今日は予約が入っていないとのことです。すぐに伺いますと言って急いで向かいました。

以前このお店はイスが5つ位ある中型店でメイン通りに面した立地でした。店には賞状や盾がたくさん並んでいる繁盛店でした。予約は受け付けて無く、待合室はいつも満席で、もちろんカットする席も満席でした。みんな待合室で漫画などを読みながら1~2時間待っていました。しかしこの店は10年ぐらい前に住宅街に引っ越しイスが2席の小さな街の床屋さんになりました。

少し緊張しながら席に座りお頭を刈ってもらうと、すぐに懐かしい音が聞こえました。店には小さい音量でクラシックが流れていますが、ハサミの音が心地よいのです。格安店と何が違うのか分かりませんが、このハサミの音はこのご主人特有のものなのか癒やされるのです。色々違いを考えたのですが、格安のお店はハサミの音がせわしないのです。また、バリカンを多用するのでモーター音がしていることが多いのかもしれません。刈り方も格安店は1度切ったところはもう切りませんが、ご主人は全体をチェックしながら左右に移動しながらバランスを整えているようです。

一通り切り終わるとちょいと苦手にしていた洗髪です。しかし、優しい指使いで頭皮をマッサージしながら洗髪してくれます。次はもう一つの苦手な顔剃りです。これも剃り終わったあとに化粧水をつけるのも顔のみならず、顔面から頭皮・首や肩までマッサージをしていきます。苦手なことばかり書きましたが、床屋さんのマッサージは大好きでした。追加料金でも延長してもらいたいぐらいです。数年前と同じ手順で一連の儀式が行われていきます。
儀式という表現をしたのも、このお店特有の所作があります。今でも一番不思議なのが顔剃りのあと、たぶんアルコールと思われるガーゼを顔にかけます。必殺仕事人で濡れ手拭いを顔にかけて暗殺する場面を見たことがありました。これを連想して「儀式」と言ってます。
一連の手順が以前と全く同じ所作で進行していきましたが、長い間来なかった間に新しい儀式が追加されていました。最後に耳掃除をしてくれるようになったようです。こちらも儀式という表現をしたのは、同じく必殺仕事人で耳に畳の縫い針を刺して暗殺するシーンを連想してしまったためです。これは突然の儀式で戸惑ってしまい良く覚えていませんが、とても癒やされました。
苦手にしていた所作も毛髪や頭皮に必要な作業なのでしょう。

このお店は格安のヘアーサロンが出てくる遙か前に今の場所に移ってきました。今から思うと、行くごとにお客さんが少なくなってきたのを感じていました。最後の頃はほとんど待ち時間なく頭を刈ってもらえました。しかし、今のお店になるとご主人が1人になり、予約制になったので中々時間が合わないことが出てきました。

久しぶりにご主人に散髪してもらい、早い・安いの代償で癒やしも無くなっていたことに気がつきました。ひと月に1度のことで、この癒やしの時間も切り捨てていました。癒やしの代償としての数千円を高いと思うか安いと思うかは人それぞれだと思いますが、自分の仕事も同じだと思わされました。
もちろん自分の店も衛生管理を今まで以上に注意して営業を続けています。営業を続けるか、休業するかは今でも悩んでいます。お客様にも家族にもリスクがあるのは承知しています。
今の時期、気持ちが荒んでくる方も多いと思います。うちの店を選んでご来店頂いたお客様にはこの癒やしも提供していこうと思わされました。

帰り際にご主人から「今回初めてですか?」と問いかけられました。自分も握っているうちに「あれ?この人初めてじゃ無い!」と気づくことがあります。顔を覚えて無くでも、注文の癖で以前の記憶が蘇ることが多々あります。おそらくご主人も、髪の癖などで以前来ていたことが分かったのかもしれません。

長文・乱文・誤字・タイプミス失礼いたしました。

八千代鮨60年の歩み(八千代鮨の創業)

親父は目黒のだるま寿司で4年間の修行を終えて、昭和32年2月に調理師会に所属しました。
その中で音羽の八千代鮨に派遣されました。そうのような状況で2か月ぐらい働いていたある日に、大将に「やる気があるなら店を譲る」と言われたそうです。
居抜きで店を買い取るには貯金もありませんでした。しかし、田舎の実家が養蚕をやっていて、ちょうど繭を納めて収入があった時期でした。

余談ですが、養蚕で繭を納めると農家には臨時収入が入ります。10人兄弟姉妹の子供たちには下駄やズック・帯などを買ってもらったそうです。
しかしこの時のお金は親父が全部使ってしまったため、他の子供たちのボーナスはナシとなってしまい、事ある毎に妹から恨み節を聞かされていました。


実家からこのお金を借りて音羽の八千代鮨の暖簾を買い取る事にしました。かくして昭和32年7月に晴れて一国一城の主となり「八千代鮨」の歴史が始まりました。親父が22歳の事です。当時は掃除やお茶出しは姉(写真右)に手伝ってもらっていました。
また、まだこの時代はお米が配給制だったので、鮨店を経営するには、お客様が持参した米1合と店の鮨ダネを加工してお客様に提供する「委託加工制度」の登録が必要でした。上の写真の看板にその旨が表示されているのが分かります。
もちろん お客様が来てからシャリを炊いていては仕事にならないので、ヤミ米などで事前にシャリは炊いていたそうです。
当時の鮨は1人前120~150円ぐらいで、1日の売り上げは2~3千円程度だったそうです。上の写真のお品書きで当時の物価が分かります。

朝6時に起きて自転車で30~40分かけて河岸に行きました。雨の日は合羽着て自転車で向いました。神田川が氾濫して大変なこともありました。
戻ってくると仕込みを始めました。昼すぎのお客さんのいない隙間に仮眠をしました。夜の1時ぐらいに店を閉めて1時間ぐらいかけて片づけをする。
まだ遊びたい盛りだったので、店が終わった後に池袋まで遊びに行って、寝ないで河岸に行くこともしばしばだったと言っていました。
大量に飲んで朝に青い顔をしていても昼頃になるとケロッとして、その夜はまた飲みに行きました。
でも、一度も寝込むような病気をしたことはありません。どんなに遊んでも店を休んだことはありません。丈夫な体が宝物でした。

定休日というのは特に設けませんでしたが、人を使うようになってから、定休日を月2回にしました。でも、冷蔵庫の氷を交換する必要があり、映画を見に行く時間ぐらいしか休めませんでした。修行中よりも仕事は増えたけども、やり甲斐はありました。こんな生活でしたが、自分の店が持てたので辛さは感じなかったそうです。

店の前を通るクルマが石をはじいて、店のガラスにヒビが入ったことがありました。そのガラスに張り紙をして営業していたら、お客さんに「そういうことをしていたら、その程度のお客さんしか来なくなるぞ、ケチるな」と言われたことがあります。すぐにガラスを張り替えました。
お客さんに「ウチから店を見てはダメだ。外から店を見ろ」と言われたことがあります。それを父は親から言われたように素直に聞きました。
横柄な客がいて「マグロ握ってくれ」と言われ「マグロはない!」「ここにあるじゃないか」「お前に食べさせるマグロはない!」と大喧嘩になったこともありました。
その客は二度と来ないと思っていたら、翌日にまた来て「昨日は悪かった」と謝ったんです。そのうち、そのお客さんとは無二の親友になりました。
お客さんには恵まれたと思います。お客さんと話をしながら握るのは楽しいものです。

 
親父の新し物好きの血が騒ぎ、新型バイクを買いました。早速、河岸に乗っていくと人だかりができたそうです。

「ひとりじゃ体壊すから、身を固めろ」ということを言われていました。何回かお見合いもしました。
契約も切れたし、店も狭かったので、榎町に移りました。音羽では昭和35年までの3年間営業しました。

八千代鮨60年の歩み(修業時代 その2)

親父は昭和9年11月17日に群馬県甘楽町の山深い小さな村で生まれました。10人兄弟で、男3人女7人の3男として生まれました。
名前の由来は誕生当日、地元の名士であった祖父が富岡(片倉)製糸工場に行幸されるのを出迎えたことからです。
この日のことは昭和天皇誤導事件という大きな事件になっています。
「行幸」では恐れ多いので、逆さにして「幸行(ゆきつら)」と名付けられました。


実家は養蚕とコンニャクを営む農家でした。幼い頃は材木を切って出すのを手伝うアルバイトもしました。重い材木を担ぎました。坑道に発破をかけて、蝋石を取り出すこともやりました。
軍隊の訓練はやりましたが、入隊はしませんでした。終戦のときは小学校5年でした。


18歳の時に、従兄弟の先輩が東京の目黒にいて、「幸ちゃん、来ない」と誘われました。それまでは東京に行ったことは無く、鮨なんて考えたこともありませんでした。
昭和28年2月18日、私は行李1つにバック1つで上京しました。父と二人で家から5分歩いてバスで富岡まで行って、上新電鉄で高崎まで1時間、高崎から上野まで3時間、山手線で目黒まで来ました。

目黒駅前の「だるま寿司」さんにお世話になることになり、店に住み込みでの修行が始まりました。「布団を持ってこい」と言われていたので、布団は送っておきました。間口が2軒・奥行きが3軒の屋根裏部屋で使用人の男女が雑魚寝でした。当時はそれが当たり前で気にはなりませんでしたが、心細かったことは事実です。自分の物は自分で寝る前に洗濯しました。


親方はあまり喋らないほうで、海軍の調理場で働いて経験もあり、とても厳しい方でした。
親方が河岸から帰ってくる10時頃までに店を隅から隅まで綺麗にしておかないと機嫌が悪くなったのです。
掃除は2時間くらいかけました。田舎にいる頃は掃除などしたことありませんでした。
親方が怒ると皿や包丁、マグロが飛んできかたこともありました。親方は短気だけど商才はありました。

女将さんは「寿司屋の女将さんはこうあるべきだ」という理想でした。チャキチャキしていました。
女将さんは「辛抱しなさい」と励ましてくれた。それは若い衆が次々と辞めていくのを見ていたからです。
私の名前「ゆきつら」が言いにくいので、「ゆきお」と呼ばれていました。


11時にはお客さんが来ました。2時くらいにひと段落。休憩時間はありませんでした。遅いときは夜中の2時くらいまでお客さんが来ました。
進駐軍が駐留している時代でしたが、朝鮮動乱もあり夜の街は賑わっていました。
私は昼夜2食の賄いも作りました。寿司の修行は手取り足取り教わるのではなく、見て覚えるという感じでした。
カウンターに立つのには1年2年かかりました。

私は将来は独立すると決めていましたが、親方は「暖簾分け」をさせる気はありませんでした。そのため昭和32年に修行を上がり調理師会に所属しました。
上野の店に1日だけ勤めたこともありましたが、すぐに文京区音羽の八千代鮨に派遣されました。大将はタクシーの運転手もやっていたので、店は板前に任せていたのです。
2ヶ月くらい経ったある日、八千代鮨の大将が「やる気があるんだったら、譲るよ」と言ってくれました。
八千代鮨はカウンターに5人、奥に3~4人座れる小上がりがありました。初めて店を持つには、もっと大きくても小さくてもダメで、手頃な大きさの店でした。

第4回いきな寄席 延期のお知らせ

台所おさん

誠に勝手ながら諸般の事情を鑑み、今回の寄席の開催を延期することといたしました。
状況が好転して日程が決まりましたら、こちらのHP上にお知らせいたします。

本当に残念ですが、今後とも「いきな寄席」をよろしくお願いいたします。


暖冬とはいえ、春が待ち遠しい季節です。
毎回ご好評をいただいております「いきな寄席」も1周年を迎え、第4回を下記の要領で開催することになりました。
皆様のご来場を心よりお待ちいたしております。

日時:令和2年2月29日(土) 午後4時 開場(4時半開演)
木戸銭:5,000円(鮨・酒つき)
ご予約・お問合せ:八千代鮨 03-3260-6389
#いきな寄席 #台所おさん

第4回いきな寄席 ポスター

第4回いきな寄席 パンフおもて 第4回いきな寄席 パンフうら

八千代鮨60年の歩み(修業時代 その1)

喪中につき年頭のご挨拶を失礼させて頂きます

かねてより病気療養中の八千代鮨初代 齋藤 幸行 が令和元年10月28日に84歳にて永眠いたしました
ここに平素のご芳情に厚く御礼申し上げますとともに明年も変わらぬご厚誼のほど謹んでお願い申し上げます

なお 皆様のお年始の書き込みは毎年楽しみにしています 例年どおり「いいね!」を付けさせて頂きますことをお許しください
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八千代鮨の初代 齋藤幸行(ゆきつら)は群馬県甘楽郡秋畑の農家の10人兄弟姉妹の6番目として昭和9年11月に生まれました。
当時 長男以外は18歳になると家を出る決まりがあり、昭和28年2月に上京しました。
当日は東京も大雪で、クルブシまで浸かるほど積もっていたそうです。当初は先に上京していた親類を頼りに東京に出てきましたが、縁あって目黒の「だるま鮨」さんにお世話になることになったそうです。

父は新しいものが好きで、当時としては珍しくカメラを持っていました。その為たくさんの写真が残っています。その写真をご覧いただきながら、八千代鮨60年の歩みを振り返っていきます。

目黒のだるま鮨さんで修行中の写真です。

当時のエピソードとしてオヤジが良く言っていたのが、少し握れるようになったときの事です。
常連のお客様が「握ってくれ!」とオヤジに言ました。
オヤジは親方の許可をもらってツケ台に立ち「何にしましょうか?」と伺いました。
するとお客様は「アンチャンの得意なものを頼む!」と注文されました。
少年だったオヤジは一生懸命得意なものをお出ししました。
するとその常連さんは「来た早々に、アンチャンが俺に帰れと言ってるぞ!」と笑いながら親方に向かって言ったそうです。

当時のオヤジが一番得意だったのが海苔巻きだったのです。そこで頑張って精一杯の「かんぴょう巻」を出したそうです。
昔は鮨屋でかんぴょうを注文するのは「ごちそうさま!」を意味しました。来店された常連さんにいきなり「かんぴょう巻」を出した落語のような親父の失敗話の一つでした。


こちらの写真は昭和28年当時の目蒲線目黒駅の駅前です。

当時は街中を進駐軍のトラックが走り回っていたそうです。雅叙園観光ホテルにも進駐軍が宿泊していて、米軍のお客様もよく来たそうです。
「進駐軍にはワサビを入れるな!」と親方から言われていたそうです。敵国に来ている兵士が、味わった事が無いワサビのツンとした刺激を毒を盛られたと勘違いするのだそうです。

少し鮨屋に慣れてきた頃のオヤジの自慢話です。目黒駅前に「ドレメ」と言う服飾学校があります。そこに通うお嬢様を10人ぐらいカウンターに座らせて、それぞれお好みの鮨を注文してもらい一人で握って出したそうです。それを一人ひとりの金額を覚えていて言えたそうです。どこまで本当かはわかりませんが・・・

目黒の「だるま鮨」さんには昭和32年までお世話になりました。

次に続く(予定です)

第3回いきな寄席を行いました

秋の穏やかな一日、吉例の「いきな寄席」を行いました。
今回は神楽坂で開催されていました「まち飛びフェスタ」とのコラボ企画ということもあり沢山の落語ファン・神楽坂ファンの方々にご来場いただきました。

まち飛びフェスタのHPを開きます

小さな落語会ですが、今後も大切に育てていきたいと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。

こちらから 第3回「いきな寄席」の まくら をお楽しみください