喪中につき年頭のご挨拶を失礼させて頂きます
かねてより病気療養中の八千代鮨初代 齋藤 幸行 が令和元年10月28日に84歳にて永眠いたしました
ここに平素のご芳情に厚く御礼申し上げますとともに明年も変わらぬご厚誼のほど謹んでお願い申し上げます
なお 皆様のお年始の書き込みは毎年楽しみにしています 例年どおり「いいね!」を付けさせて頂きますことをお許しください
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八千代鮨の初代 齋藤幸行(ゆきつら)は群馬県甘楽郡秋畑の農家の10人兄弟姉妹の6番目として昭和9年11月に生まれました。
当時 長男以外は18歳になると家を出る決まりがあり、昭和28年2月に上京しました。
当日は東京も大雪で、クルブシまで浸かるほど積もっていたそうです。当初は先に上京していた親類を頼りに東京に出てきましたが、縁あって目黒の「だるま鮨」さんにお世話になることになったそうです。
父は新しいものが好きで、当時としては珍しくカメラを持っていました。その為たくさんの写真が残っています。その写真をご覧いただきながら、八千代鮨60年の歩みを振り返っていきます。
目黒のだるま鮨さんで修行中の写真です。
当時のエピソードとしてオヤジが良く言っていたのが、少し握れるようになったときの事です。
常連のお客様が「握ってくれ!」とオヤジに言ました。
オヤジは親方の許可をもらってツケ台に立ち「何にしましょうか?」と伺いました。
するとお客様は「アンチャンの得意なものを頼む!」と注文されました。
少年だったオヤジは一生懸命得意なものをお出ししました。
するとその常連さんは「来た早々に、アンチャンが俺に帰れと言ってるぞ!」と笑いながら親方に向かって言ったそうです。
当時のオヤジが一番得意だったのが海苔巻きだったのです。そこで頑張って精一杯の「かんぴょう巻」を出したそうです。
昔は鮨屋でかんぴょうを注文するのは「ごちそうさま!」を意味しました。来店された常連さんにいきなり「かんぴょう巻」を出した落語のような親父の失敗話の一つでした。
当時は街中を進駐軍のトラックが走り回っていたそうです。雅叙園観光ホテルにも進駐軍が宿泊していて、米軍のお客様もよく来たそうです。
「進駐軍にはワサビを入れるな!」と親方から言われていたそうです。敵国に来ている兵士が、味わった事が無いワサビのツンとした刺激を毒を盛られたと勘違いするのだそうです。
少し鮨屋に慣れてきた頃のオヤジの自慢話です。目黒駅前に「ドレメ」と言う服飾学校があります。そこに通うお嬢様を10人ぐらいカウンターに座らせて、それぞれお好みの鮨を注文してもらい一人で握って出したそうです。それを一人ひとりの金額を覚えていて言えたそうです。どこまで本当かはわかりませんが・・・
目黒の「だるま鮨」さんには昭和32年までお世話になりました。
次に続く(予定です)
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