今回の旅は久慈と陸前高田をゆっくりと楽しんできました。今回で4年目で通算6回目となりましたが、今までの訪問も含めた雑感をまとめてみました。
★久慈(含む小袖海岸) 今回で5回訪問しました。
・初めて訪れたのは14年5月で、あまちゃん(13年4月~9月放映)ブームのすごさで小袖海岸は大混雑でした。もちろん私もあまちゃん目当てでした。
当然、全線開通した三陸鉄道 北リアス線も山手線並みの大混雑で、臨時列車の増発や通常1両編成で運行しているのを増設していました。
小袖海岸は震災の影響もあってマイカー規制されていて、バスで行きました。バスは土日休日は1日1往復のところ、30分に1本と大増発していました。
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・15年5月 2回目の訪問ですが、あまちゃんブームはまだ続いていました。
マイカー規制は解除されて小袖海岸まで車で行けるようになりました。3代目の海女センターも新設されて、観光の拠点になっていました。例の灯台は立ち入り禁止となっていました。
しかし駅前は相変わらずの状況です。東京だとブームに乗った屋台が出て観光客相手の商売をすると思いますが、東北人らしい慎ましさなのかブームに対する戸惑いさえ感じます。
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・17年4月 状況は前回と変わりありませんが、そのおかげで16.5にはウニ弁当を、今回はウニ丼にありつけました。
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・17年8月 今回は初めて夏の訪問になったのでですが、ウニ漁の素潜り実演もあり 雨の降る寒い中でも、前回17年4月よりは小袖海岸の人出はありました。
ただし北リアス線は往復とも全員が座れる程度のお客さんでした。
(一部鉄道ファンの方は運転席後ろに立っていました)
久慈駅~小袖海岸行きのバスの臨時増便も終わってしまい小袖海岸のアクセスがなく、マイカー規制も解除されたので、三陸鉄道のメリットが無くなってしまったのも要因だと思いました。
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★陸前高田
・最初は15年5月に久慈から石巻に向かう途中、折角なので高速道を使わず海岸線を南下していたところ、奇妙な光景を見たのが切っ掛けでした。
町全体がセメント工場になったような巨大なコンベアーが張り巡らされていて、後に陸前高田だったことがわかりました。
このコンベアーは山を切り崩して、その土を嵩上げする場所まで運搬するためのものであったことを後に知りました。嵩上げする面積は広大な広さがあります。
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・次に訪れたのは、翌16年5月でした。久慈から石巻に向かう途中の休憩所で宿を探していたところ、たまたま陸前高田に空室がありお世話になることになりました。
巨大なベルトコンベアーはすべて撤去されていました。
その宿は素泊まりしか無く近くで食事ができるところを紹介してもらったところ、鶴亀鮨さんを含む数店舗を探してもらい向かいました。
鶴亀鮨さんのことはたまたまテレビで見ていましたが、違わぬ歓迎をされました。
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・次は今年の4月に東京から久慈に向かう途中に、たまたま陸前高田に宿を取ったのですが時間が合わず鶴亀鮨さんには立ち寄れませんでした。
(この時、宮古から北リアス線で久慈に向かう予定でしたが、時間に間に合わず乗れなかったのでした。そのため今回は宮古に宿を取りました。)
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・今回17年8月は宮古から帰宅の途中で、前回素通りしてしまった鶴亀鮨さんで昼食を取ろうとしたのが切っ掛けでした。
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震災後、三陸には3年前に初めて訪れたのですが、切っ掛けは鮨屋として以前から三陸の魚にはお世話になっており、自分の目で見てみたいという思いでした。
これまで三陸には6回しか訪問しておらず、車で通過するだけの場所の方が多いのですが、石巻~久慈間でも300Kmあります。
被災地域は福島県もありますが、いまだ立入禁止箇所が多く国道6号線で素通りするのが精一杯な状況です。
福島~岩手の海岸線は500Km以上に及びその間に無数の漁港や町があります。1つとして同じ町は無くそれぞれの事情は異なります。
震災から6年が経過して基礎となる工事は概ね終了したように見受けられます。それぞれの町によって復興の考え方は大きく異なります。
・石巻は巨大な防潮堤を築く。
・女川は逆に堤防を築かず海がどこからでも見えるようにして、住居は高台に移転する。
・陸前高田は嵩上げをして、そこに新しい町を築く。
また三陸道を高台に通して防災・復興の大動脈を確保する・・・やっと土台となる工事が各地で終わってきたのかなと思います。
しかし、これから復興の大事な事業が始まります。現在、仮設住宅や仮設商店街で生活してきた場所を、整備が終わった場所に再移転しなくてはならないのです。
それには精神的・身体的・経済的負担が大きいことは想像するにあまりあります。
少し話がずれますが、被災した建物等を震災遺構として残したことにも、今となっては正解だったのか?悩んでいるようです。
被災直後は心情的にも後世に語り継ぐために震災遺構として保存する気持ちは理解できます。
しかし時間がたち現実の生活を第一に考えられるようになると、極めて重い資産になっているようです。
自分も三陸を訪れる度に各地の震災遺構に手を合わせてきました。しかし面白半分に行くのは不謹慎に思い、次第に足が向かなくなった施設もあります。
観光客誘致には極めて難しい問題となることも考えられます。
不謹慎ですが、遺構のそばに大型駐車場や道路を整備し、土産物店や休憩場・防災知識の啓蒙施設・町の情報館・・・を作るぐらいしないと町のためにはなりません。
しかし震災遺構はあまりにも心情的に重たく、観光客誘致の起爆剤になるか疑問ではあります。
すべての遺構は崩壊を防ぐために補修工事も完了し、半永久的に津波の恐ろしさを留めていくことになると思います。今となっては物理的にも心情的にも整理できなくなっています。
そんな中で、陸前高田の「奇跡の一本松」は前向きな象徴でとても良いと思います。この松も手入れする人がいないので、当初10年しか保存しないことが決まっていましたが、町の人の働きかけで保存が延長されることになり、大変うれしいことだと思います。
三陸では多くの人から話を伺えました。そっとしていてほしい人も多くいると思いますが、話してみると「語りたいのかな?」と思うことも多々ありました。それぞれの被災経験を「誰かに聞いてもらいたい!」と思っている人もたくさんいるようです。メディアを通さない生の声は心に残りました。
初めは何気ない思いつきで始まった三陸一人旅ですが、目的を決めずに無計画で出発しても、タブレットとカーナビがあれば何処へでも行ける時代になりました。非効率なルートを通ることも多々ありますが、そこには様々な出会いがありました。逆に綿密な計画をしてイメージを持って出かけると裏切られることになり、こんなに続かなかったのかもしれません。
同情するのでは無く、三陸が楽しいから行く。これからも、たくさんの出会いを楽しみにしています。
とは言うものの、交代のドライバーがいた方が休憩やルート検索・話し相手等の面で良いと思いますよ。ちなみに私は録音したラジオ番組を聴きながらニヤニヤしていました。
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